興味深い話だったので、おとのくに♪♪のピアノの先生の記事をまた引用させて頂きます。
以前、リズムではないのですがペダルが濁る大人の生徒さんにペダルのことを指摘しましたら、自分は耳が悪く(音楽的な)言われてもわからない。わからないことを言われても困る、と言われたことがあります。微妙な濁りの話ではなかったので普通に通じると思って言ったのですが、想像だにしない言葉を浴びせられ驚きました。
ペダルなしとペダルを踏んで濁っている時の違いを聴いてもらおうと弾いてみましたが、自分は違いがわからないと。近くの音を聞こうとしているのではと思い、空間の上の方の音を聞いてみるとわかるかもしれません、とも言いましたが、耳が悪い、センスがないから自分はわからないと。
この生徒さんの心境が何となく分かる気がした。多分音楽に壁を感じて心を閉ざしてしまったのだと思う。
私も、音が分からなかったり簡単なリズム打ちすらできなかったりで自分のセンスのなさを知り、できる人との間に見えない壁を感じるようになっていた。自分の聴こえない音を聞き、把握できないリズムを感じて音楽を楽しんでいる人がいる。その人達を横目に見て、羨み、妬み、勝手に疎外感を覚えていた。この生徒さんも音楽をやっているうちに自分の感覚の欠落に気付いて、ヘソを曲げてしまったのだと思う。
私は長い間そうやっていじけていたが、ここにも散々書いたように感覚の訓練に挑戦してみたら、変わらないと思っていた音の聞こえ方が変わってきた。「少しずつなら前進できる」と知ったら気が晴れ、前向きな姿勢を取り戻せた。
この生徒さんも日々の積み重ねで感覚が変わっていくことを経験として知っていれば、もう少し前向きになれたのかもしれない。「今の自分の感覚では音の濁りをあまり感じないが、それはピアノ歴が浅いからであって、続けているうちに分かるようになるはず」と。
大人の習い事だからどこに到達点があるわけでもないが、やはり前進している感覚は必要だ。
目的地がないのに「前進」というのもあれだけど。