fortia’s カメラレビュー

カメラと猫と骨董品

写真と貧乏性とヒトカラの向上心

きれいな景色を見つけると写真に収めたくなる。それだけなら多くの人が持つごく自然な感情だと思うが、私の場合は写真に撮らないと落ち着かない。不安になる。数分後には消えてしまうその景色を写真にしておかないと損をしたような気になってしまう。何も失わないのに。

「撮らないと損をする」という感覚は100円だからと不要なジャンクカメラを買い漁ってしまう貧乏性に通じている気がする。

機械の分解は学びでもあるからジャンク集めも無駄ではないが
収集の勢いが分解のそれを上回っているのが問題だ

必要だからではなく取りこぼしたくないから手に入れる。

写真も同じ。撮って何をするわけでもない、ただハードディスクに放り込んでいくだけ。

文脈も何もない風景を、ただ取りこぼしたくなくて撮り続ける。

絶景を前にしてもカメラを構えずにいられる人々を見て、その余裕を羨ましくも思っていた。

 

最近はヒトカラという新たな趣味ができて写真に割く時間が減ったせいか、この「撮らなきゃいけない」という強迫観念が薄れてきて少しほっとしている。

カラオケで自分の歌を録音して聞き返すと歌唱中には気付かなかった問題点が怖いくらいに見つかるのだが、これを試行錯誤で修正していく作業が楽しくてはまっている。

やはり健全な精神の維持には興味の分散が重要だなと思う一方、ヒトカラで録音と再生を繰り返す行為が果たして健全なのかという疑問も浮かぶ。

本来仲間とワイワイやるべきカラオケを一人でジメジメやるんだから不健全に決まってる、という指摘は甘んじて受けるとして、それ以上に、機械の力を借りてまで課題を見つけ出し、修正しようとする姿勢が健全とは言えない気がするのだ。

録音しなければ音痴に気付かず気持ちよく歌唱できるのだから、わざわざ自分から粗を探しに行く必要はないように思える。向上心と言えば聞こえがいいが、誰が聞くでもない素人のヒトカラだ。ちまちま改善を積み上げて何になる(積み上げた割には未だに外し続けるし)。録音にどハマりせず、もっと気軽に楽しんだ方が心豊かな生活を送れるのではないだろうか。

貧乏性の呪縛から逃れた気でいたが、こんなところにもその影が見え隠れしていて、染みついた性質はなかなか拭い去れないのだなと嘆息する。

でも昨日外していた音が今日当たるようになるとやっぱりうれしいからヒトカラ録音は当分続けると思う。