連休の山下公園で、カメラをぶら下げ散歩する私の傍を幼児がキャッキャ言いながら駆け抜け、その後ろをスマホを縦に構えたお父さんが「待って待って」と追いかけていた。
「スマホで動き回る子供の撮影は難しいだろうなあ。せめて横向きで撮影すべきだよなあ」
そう心の中でつぶやく私は、動体撮影が得意なソニーのフラッグシップ機でお花の撮影に取り組んでいた。しかめ面で覗くファインダーの中、アルファの正確なコンティニュアスAFが風にそよぐバラをがっちり捉え続けていた。
動かないものばかり撮っている私にαのフラッグシップは宝の持ち腐れと誰しも思うだろう。
私も思う。
止まったものばかり撮らされ毎度毎度「四隅の画質が云々」やらされカメラも泣いている。
この日この場所でこのカメラを持つべきは私でなくあの父親だった。私は虚しさと共に申し訳なさを感じていた。あるべきものがあるべき場所にない。その責任の一端が自分にあるような気がしていた。
しかし世の中そんなものだと思う。
あちらを立てればこちらが立たぬ。
仮に私が子供を持てば、画質論評する暇もヤフオクを覗く用もなくなりカメラへの散財はしなくなる。だろう。そしてもしあの父親に子供がいなければ、暇と金を持て余し、使いもしない機材を蒐集し続けるカメラマニアになっていた。かもしれない。
眼前に無数の分岐があっても振り返れば人生は一本道。何かを選び取れば排反する別の何かを諦めねばならない。カメラの道を選べば子供は持てず、子供を持てばカメラマニアにはなれず。
彼が持つべきだったαを私が奪ったのではない。
それぞれがただ別の歩みを進めたにすぎないのだ。
散歩に疲れた私はそう自分に言い聞かせ帰途についた。
肩に掛けたカメラがいつも以上に重かった。
※この物語はフィクションです。現実の私の心境とは関係ありません。